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頼みたいぜ

ユニコーンの新作「Z」を買った。
やっぱり民生と阿部のコンビはすごい。今回阿部の曲多めでもまるで違和感がない。
一曲目の頼みたいぜには驚いた。ロカビリーチックな感じがなんとも時代錯誤してていい!
あとテッシーの曲は毎回いい味出す。
オールウェイズ、オッサンマーチ、手島いさむ物語。人間味あっていい。
で、EBIはまた暗い(笑)
ユニコーンらしくて素晴らしいアルバム。

forever

永遠なるものという曲がある。
その曲を作った歌手はどこまで本気だったのだろうか?
スヌーピー大好きな奴が重タール漬けガイでもよかったんだろうか?
悪者がもつ孤独がわかったのだろうか?
全てが人並みになりたかったんだろうか?

僕はこの曲からは狂気を感じてしまう。
幸せなメロディやヘイジュードのような笑い声。高らかなスライドギター。 見事なストリングス。
ただどうしようもなく重い歌詞。

空の青さを知らない人が青さに憧れるような。
足がない人が走り回る夢を見るような。
どうしようもない哀しみが見える。

もし全てが人並みな人は人並みになりたがらず、「天才」になろうとするだろう。
満ち足りた人は哀しみなんて歌えない。

天才と凡人どちらがいいんだろうか?

愛が全てに降り注ぐ博愛な世界はきっと失わない事にはなり得ないんだろう。


頭痛

七尾旅人の1stアルバム「雨に撃たえば」に入っている冗談みたいなタイトルの曲、ガリバー2(頭痛)
曲のイントロを聞けばこの曲がどれだけ本気なのかわかるだろう。
(そもそもこのアルバムは冗談なのか本気なのかよくわからないような所があるが)

ガリバー2は約10分にも及ぶ大作だ。
シンプルなコード進行と美しいメロディだが、そこに歪んだサウンドや浮遊感のあるキーボードなどたくさんの音を幾重にも重ね、ボーカルもエフェクトを使いサイケデリックさを出している。
こいつは本当にイっちゃった人じゃないかと思った。

歌詞の内容も不可思議だ。
一人の女の子との生活を歌ってる気がするが、歌詞カードを見ても字が読めないところがあるので正解はわからない。(そもそも正解なんてないが)
何故かこの人は自己否定が痛々しい。
この曲ではわかっちゃいなかったり、ぶっ壊れたり、発汗したり、忙しい。

そして薬を服用して、それによって自身をたもっている風にも聞こえるサビ。
医療の最先端ってやつはすごいね
重い歌だ。

心から愛し合ってる二人のラブラブな世界はここになく、かといって社会に理由もなく反抗しているわけじゃない。
ただ二人の歪な生活のなか、薬を飲んで、延滞したビデオ見て、レコード聞いて、生きている。
ただの生活の歌かもしれない。
本当に核心に迫った生活の歌。

プーティウィー?

タグ:七尾旅人

フォーク

スネオヘアーにフォークというアルバムがある。
少し明るめの曲が多いキャッチーなアルバムだ。
で、そのタイトル曲がフォークだ。

この曲は派手なサウンドや変わったことはなに一つしていない。直球な曲だ。

こういう曲でこそアーティストの真価が問われると僕は思ってる。
女の子の化粧のようなもので、派手な事や綺麗なことをやればやるほど周りと同じになっていく。

フォークのサウンドはイナタイギターを中心にしたバンドサウンドだ。
装飾はギターのアルペジオくらいだ。
そのバックにヘタウマなボーカルがのる。

やはり一番目立つのがそのメロディーラインだろう。
キャッチーさとロックさが上手く同居している。
もしこのメロディーでもっと大衆受けを狙った歌詞を載せたらスネオヘアーの今は変わったかもしれない。

どうしてもっと簡単に
分かり合えないテーブルで
そんなにも簡単に
好きになんてならないで

この曲を聴くと最近の事を思ってしまう。
地震があった。
しかし、流行り廃りのように忘れる人達やメディア。
平静は必要だしいつもどうりである事も大切だ。
ただ散々批判を繰り返したり、危機感を煽ったりした結果がこれなのかと。

なにも出来てないのに、出来てるフリをしているといつか自分の嘘に騙される。
なにも出来ないで悩む人は強い。決して嘘に騙されないから。

テーブルから見てる画面はずっと前に消しました。節電の為にも。

どこまでいくのだろう

孤独を積んだ満員電車

今日、歓迎会というやつで少し大勢とお酒を飲んだ。
誰もが孤独を持ち、孤独を逃れる為に白装束を着ているんだな、なんて斜めに捉えた事を思ってしまった。

自身の幸せを他人の不幸や不自由や欠点で比較し、出来る限り理想的であろうとする。
誰かを落として誰かと結びつく。
歪な関係だ。

ある人はないよといって見下すように話題を変えて
ある人はあるよといって白装束に着替えだした。

ただ遠い僕は誠実な彼や彼女の幸せを願いたい。

歪な音楽より、まんまるの音楽の方がいい。

そして不幸の連鎖を繋げる僕は消えればいい。
神様聞こえないフリですか?

綺麗事絵空事

どっかのPOPバンドTwitterで少したたかれてた。
「人畜無害」と批判されていた。
「人畜無害なものを作るのも大変」とか反論してた。

綺麗事の音楽は必要だと思う。
幼い頃にそういう音楽を聞き、そこから世界を広げていく人もいるだろう。
ただ綺麗事の音楽と模倣の音楽はまるで違う。
どの曲や詞も同じようなのばかりは本当に意味がない。
ひたすらに励まし、理想的なほど愛し合う。
僕はそれを普通に受け入れられるほど世間知らずでもない。
絶望の中の光景、痛々しいほどの孤独。
それを聞きたい。


お別れの歌

フジファブリックを聴き始めて浅い僕が最近気づいたのが、お別れの歌。
フジファブリックにはお別れの歌がとても多い。
ある種、ユニコーンのすばらしい日々のようでもある再会を祈るような「記念写真」
永遠の別れを幼い気持ちで見つめたような詞、ハードなバンドサウンド「黒服の人」
とてつもなく未練タラタラな「笑ってサヨナラ」
それ以外にも本当に多くの曲で別れが歌われている。
そして本当に多くの曲で主人公は孤独だ。

ここまで痛々しい別れや孤独ばかりをうたっているバンドを僕は知らない。
あるいはシンガーソングライターの場合だったら、それも理解できるだろうが。バンドというものは孤独というよりも温もり溢れるものだろう。
例えば、中村一義がバンド「100s 」を結成して、彼は状況の裂いた部屋を抜け出し、以前以上に温かみのある曲を作るようになった。(賛否両論はあるが)

志村正彦という人間はどんなにバンドで曲を作り演奏していても孤独が消えていない。

歌詞がそれをよくあらわしている。

特にクロニクルに至っては完全に孤独なアルバムだ。
フジファブリックというよりも志村正彦の人生をあらわしたかのような曲ばかりだ。
このアルバムではメロディーと歌詞どれもが孤独に震えているようにも聞こえる。
弱い部分をさらけ出している。自虐的にも思えるほど。

だから僕は大好きだ。
か弱い気持ちすら音楽に昇華されれば強いものにも負けない。

もし温もりを志村正彦が唄ったらどうなったんだろうかと思ってしまう。
くだらない妄想だ。
「もしジミヘンが~」とか「アベフトシが生きてればミッシェルが~」と同じくらい絶対不可能な妄想だ。
だから僕は多くの音楽を聞く生活の中で、フジファブリックを忘れないでいたい。
彼らはきっと志村の意志とか世間の期待を早めに放り出して自分達のやりたいことをやっていくだろう。その自由な音楽が僕は聞きたい。


おおきな声で

ライブに僕はあまり行かない。
あんまり行きたくない。
ライブでは腕を振り上げノリまくって客も歌う。
正直好きじゃない。ミュージシャンとリスナーの関係は音だけで繋がってればいい。
その関係にむだな振り付けや客の歌はいらない。

前いったとあるライブで近くの女性がずっと歌ってた。
お前の声に興味ないんだよ。

最近の音楽のライブ映像をみるとふと思う。
棒立ちのなにが悪いんだと。しっかり聞いているんだよと。

長澤知之のライブでも合唱とかやんのかな?

BIRDS

COILの代表曲のBIRDSという曲がある。佐藤洋介さんがライブに出れなくなってからは山崎まさよしと岡本定義がよく一緒に演奏してる。
ただその映像や音を聞くたびに、なにかが違うと思ってしまう。
普遍的なメロディーや佐藤洋介作曲にしてはビートルズの匂いがするこの曲をなぜ山崎まさよしが歌っては違和感があるのだろうとずっと考えていた。
考えると結局声質的な問題にたどりつく。
低音が響く岡本定義の声質と、高音を出してもどこか特徴的な中音が耳につく山崎まさよし。
そして佐藤洋介はロバートプラントにも通じる特徴的な高音がある。
岡本定義と佐藤洋介の正反対とも言える声質が合わさって素晴らしく響くのだろう。それこそポールとジョンのように。
ただやはり本当に違和感を覚えるのはそこに佐藤洋介さんがいないことにだ。
ポールだけで演奏するビートルズナンバーがどこか味気ないものに似ている。

偉そうに言っておきながら僕はCOILのライブにいったことがない。
むしろライブというものにまともにいったのは去年の長澤知之のワンマンライブしかない。
だからこそ佐藤洋介と岡本定義の二人が合わさったライブに行ってみたい。
きっとそれはエンターテイメントとして完成されつくしたものではないだろう。CDよりも下手かもしれない。
でも二人が揃い一つの曲を歌ってる姿を見たいのだ。
ビートルズのように気づいたらいなくなってる、なんてことにならないように。

ずっとウソ

先月、斉藤和義が自身のヒットシングル「ずっと好きだった」を歌詞を変えて「ずっとウソだった」としてYoutubeに発表した。
それに対していろいろなところで意見が上がった。ある大物ミュージシャンは肯定して、あるPOPバンドのギタリストが否定的な意見を出して逆に批判されたりもした。

僕はこの曲について、またやってくれたなぁだとか軽く思っていた。

自分にとって斉藤和義はそんな存在だ。
ファンではないが、たまにCDを買う。
斉藤和義はいい意味で僕を安心させてくれる音楽なのだ。
ずっと変わることなく自らの音楽(そしてルーツミュージック)を演奏し続けている。
たとえば、フジファブリックなんかを聴いているとアルバムごとにまるで個性が違う。
それはそれでもちろん凄いことだし、当然のことだ。
ただ変わり続ける音楽が多い中、自分のポリシーを演奏し続ける斉藤和義をきくと「いつでも来いよ」と馴染みの居酒屋に言われてるような気分になる(馴染みの居酒屋なんて実際僕にはないが)

同じような心境は奥田民生や山崎まさよしにも感じている。

斉藤和義の魅力はやはりロックだろう。時にハードロック的だったりオールドロックだったり。あとたまにポップだったり。
そして曲の特徴として、言葉数が異様に多いこともあげられる。
奥田民生メロディーが4分音符のようなもの(もちろんそれだけではないが)なのに比べて、斉藤和義は言葉数が圧倒的に多いラップにも匹敵するほどだ。
特に「幸福な朝食、退屈な夕食」なんて単語の連打である。一聴しただけではまるで意味わからない主張にロックの原点的なものを感じたりもする。

あと好きな点が批判歌が多いことだ。
ちょっとせこせこしい批判もあるが。そういう典型的なものもロックとして楽しめる。

ただ、「ずっとウソだった」が長く歌い継がれてほしくはない。
世の中的にもこんな歌が無くなって欲しいし。
この曲のイメージばっか付くのもあんまり良くないと思う。
タグ:斉藤和義

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